願いが叶う恐怖を感じよう

前回は、多くの人が願うタラ・タントラでの
お金の具現化について書きました。

東北旅 田んぼアート

まずはお金が出ていく恐怖に慣れること、
その流れを止めないことなのです。
多くの人が願った事が叶った時の
心地よさだけをイメージしています(笑)
本当に具現化するときは、もっと身近に迫っているので、
恐怖が起きてくるはずなのです。

自営業の人が集客を願う時も同じです。
実際に「お客さんが来て欲しい」と思うけれど、
本当に、お客さんが押し寄せる恐怖には、慣れていません。
何が起きるか体感さえもわからないのです。
タラは先に体感させます。
そして、自然の流れも重要ですね。

私は一度に一番多くの人に瞑想を教えた経験は、
東京の高田馬場で開催していた時の25名でした。
だからよく知っている人の25名までは一切、
怖くないし緊張しません。慣れているからです。
けれども、瞑想の合同のWSで、知らない人達、
50人くらいの前で立って、
はじまりの挨拶する機会を頂いた事があります。
足は自発動で震えました。
心理学の周年記念パーティで、挨拶したときは、
もっと多い250人の前で、集客の話をしましたが、
両足ブルブル自発動がおきました。

100名規模の大勢のお客さんに囲まれる経験に
慣れてないからです。
タラであれば、恐怖に慣れる事が、
先に起きてくるでしょうね。
これがリアルな具現化だからです。

実際に、
「瞑想に人が沢山来ますように・・」と
タラにお願いした事があります。

その時は、
すごいエネルギーが、頭頂から丹田まで降りて行き、
丹田から、外側の世界に出て行きました。
100%具現化する事がわかりました。
99%とかではありません。
100%の内側の体感と確信が伴っていました。

エネルギーって無色透明で見えないはず
なのですが、見えたのです!
ごごごごーって音がしたので、
びっくりして目を開けてしまい。
シャクティが外の世界に出て行ったのが分かりました。

だから、丹田というのは、
具現化(創造)に重要な場所だと私は感じています。

その体験の後からは恐怖と戸惑いしかありません。
自分が願った事にも関わらず、
人が大勢やってくる事に、100%の確信を伴っていたので、

椅子が足りるのか?トイレが1つで足りるのか?
玄関チャイムの押し間違い多発での近隣住民からの
苦情があるかもしれない事を受け入れる覚悟とか、
そういう自分の中の恐怖を受け入れていく作業が
起きてくるのです。これに慣れる事が具現化なのです。

今回は、せっかくなので、1億円は見た事がないので、
これをタラにお願いしてみましたの(笑)

以前の「また札束か・・」の時とは、
全然、体験が違いましたね。
自分の内側の大きなフィールドで
エネルギーが静かに回っているのを感じました。
タラからすれば、
すでに内側には1億円があるようです(笑)
(どこに〜!って叫びたいわ!)

とにかく出てくる動きには従う方がいいので、
シャクティの流れに従って、
青春18切符を買って、列車で近くを色々、
旅行する事にしました。

前回は、瞑想の仕事で具現化しましたが、
そこに自然の流れがあったからです。
まだSNSが今ほど発達してない時期から
瞑想の仕事を始めていますから、
メルマガ1つ書けば、全国各地、世界各地から、
瞑想を習いに人が集まるような時代の中で、
仕事での集客が収入に繋がる良き時代だったと思います。

今、このSNS乱立の状態で昔みたいに、
瞑想を全国展開で教えたいか?と言われても、
全く望んでません。レッドオーシャンに
自分が入っていく理由がないのです。
(タラもそこに入る理由がない)
マイペースで月1回教えるのが、
一番心地よく幸せを感じています。

だから、1億円が具現化するとしたら、
20年かけての日本の個別株や保険の積み立て
などではないかなと思います。
いつも人がまだ、
あまりやってない事をやりたいなと思っています。

あまり、頭で考えすぎると、
タラの動きに制限を加えてしまうので、
考えすぎないようにしています。

株はとても面白いな〜と感じます。
シャクティの流れそのものだからです。
またこれもどこかで追々。

これは、私に当てはまっても、
皆さんに当てはまるとは限りません。
それぞれが、タラの動きに従ってみて、
学ぶことが大事なのです。

9月11日(日)は伝授&瞑想会です。
9時45分から 赤タラ
11時からビジャ・タラ伝授となりました。
それではめいっぱい楽しみましょう!

瞑想みのり

あっまた札束か・・

こんにちは
瞑想みのりです。

前回の続きですね。タラに具現化をお願いする時は、
「エゴは悪」という、思い込みを取り払って、
大胆にお願いしてみましょう。

どちらにしてもタラが軌道修正をしながら
具現化するので、困ったことは起きません。

タラはダルマ(自然の流れ)を教えてくれますし、
一歩先を教えてくれますね。
100歩先とか教えません。必ず自然な1歩先です。
ただ、その流れを信頼してついていく事は、
必要になります。

ある人が
「ありったけのお金を下さい!」と、
具現化をお願いしました。

そうしたら、ありったけのお金が出て行き、
無一文になったそうです。

これも「タラらしい体験」だと言えます。
このスケールや大胆さに慣れて欲しいのです。

お金の流れはシャクティの流れと同じです。
本当に入ってくる事を信頼していたら、
出ていく・・という流れも信頼して
任せられるはずなのですね。

でも、この流れが起きた時、
人は怖くなるのです。

私もお金を願った事がありますが、
同じような感じでした。
お金を願ったのに、反対の事が起きる。
おそろしいほど、
両親のためにお金が出ていく事でした。
「冗談じゃねぇ!」と思いましたよ。

願ったことと真逆のことが起きても、
それを信頼しましょう。
タラは、1歩先を教えようとしてるのです。

この出来事から、気づきも沢山ありました。
親孝行するって、本当に気持ちの良い事です。
親が元気でいてくれることも嬉しいですし、
子供の時は、親なしで生きれなかった自分が、
いつの間にか力を蓄えて返せるようになっていること。
こんな喜びはありません。自分の成長も発見します。
親が無償でしてくれた事も沢山、思い出しますよね。

 

これがタラの教えですね。ダルマです。
こういう色んな感情を味わう事含めて、
すべてが(お金が入ってくることに)
必要な過程なのですね。

しばらくして、
明け方、札束が落ちてくる夢を観るようになりました。
それもバラバラの厚みの札束です。
100万位の厚みだったり、300万くらいの厚みだったり、
500万位の厚みだったり、色んな厚みの札束です。
ばさばさと、束になって沢山、落ちてきます。

シャクティは、人間の5感覚を、神の知覚のように精妙に
変えていく働きがあります。
松果体から出てくるソーマがもっと発達した状態のことです。

5感覚(聴覚・視覚・触覚・嗅覚・味覚)が、
目覚めるのですが、特に触覚の目覚めについては、
大きいものがありました。夢が現実のようにリアルになるのです。

現実でもあり、夢の中でもあり、私は布団を
肩までかけてベッドで寝ていますが、
顔やおでこ、肩に札束が「ばさっ」と当たる音がして、
重みもあり、落ちてきて、顔に当たり、そのままバウンドして、
顔の横のベッドのソファーに、着地する夢です。

そして、
朝起きると、身体がガチガチに緊張しています。
私は、それまでは、見たとしても300万程度の
札束しか見た事がありません。
銀行口座の引っ越しで口座から出して見た程度でした。
だから、夢の中の大量の札束に緊張してるのです。

多くの人は「大金が欲しい!」と言いながら、
それを見たこともなければ、触ったこともないし、
それが本当にやったきた時、どんな気持ちになって、
どんな感覚が心や身体に起きるかすら知らないのです。

慣れてないというのは、
緊張でガチガチになり、受け取れるわけがないのです。

 

この夢は1週間、毎日続きました。最初の3日間は、
目覚めると、緊張で身体がガチガチでしたが、
3日過ぎたあたりから、少し慣れてきたのです。
「これ、タラにお願いしたからだな・・」と思ったので、
札束を受け取ろう、と思うようになってきて、
(受け取るより、許そう、慣れように近い感覚です)
7日目には「あっまた札束か・・」と、すっかり慣れていました。

そして、本当に私が札束に慣れた時、
外の世界で、この夢で起きた事は、現実になりました。
もう札束で驚く事はありません。
あるとしたら、1億円は見た事ないですから、
生きてる間に目指してみたいですね。

 

計算上では、
20年でも半分しか達成しないと思ってます(笑)
だから、こういう自分ではムリと感じるお願いは
タラにしてみるのは、良いかもしれません。
ここに沢山の学びがあるでしょうから。
面白いと思います。

 

タラの具現化は、私たちを諭すように、
手取り足取り、
具現化の過程を見せてくれるし、
沢山の教えをもたらします。

何をお願いして、具現化でどんな過程があったかを、
簡単に日記にしてみるのは良いと思います。
私は、瞑想の日記はお薦めしませんが、
タラの具現化については、メモしておかないと忘れてしまうので、
メモしておきましょう。

瞑想みのり

秋田竿燈祭り

 

してはいけないお願いは

こんにちは瞑想みのりです

長めの夏休みを頂いておりました。
青森と秋田を旅行してきました。

ねぶた祭りと竿燈祭り、
男鹿のなまはげを見てきましたが、
特にねぶたは、立体的なので横、斜め、後ろ、
どこから見ても美しい芸術作品に仕上がってます。
絵を見るような感じかと思っていたら、
違ってて、デコレーションケーキというか、
宝石箱を見るような感じですね。
長年、行きたかったので満足です。
多くの人が天気が晴れて欲しいと願うからなのか、
祭りの時は、見事に晴れてましたね。
終わった途端の雨って、気合いか!
って思いました。

 

ではでは・・・
軽〜くさぼったブログ。

今日はタラ・タントラに頂いた質問から。

質問: タラ・タントラで
お願いしてはいけないことはありますか?

東北の自然は素晴らしい


みのりお答え:ありますよ!

タラは具現化のテクニックでもありますから、
こんな質問が出てくるのですね。

何かが形になる時、
必ず最初は、私たちの心の中にあります。
それが外側の世界に反映されていきます。

例えば、飛行機という物体は、
誰かが「飛べたらいいな」と意図を持ったから、
結果として、現象の世界に登場してます。

空(創造のみなもと)・風・火・水・地
具現化は必ずこの過程を辿ります。
例外はありませんし、
タラ・タントラはこの過程を観たり、
そこに、色んな気づきや発見があるのですね。
それが面白いのです。

タラに何を願っても、
タラは知性がありますから、
軌道修正するような形で、
それこそ、私たちを諭すような形で、
そこに沢山の教えと洞察をくれる形で、
具現化していきます。
だから、ギラギラの欲望丸出しで、
エゴ満開のお願いの仕方でもOKなのですね。
そういう方が、人間らしくて良いと思いますよ。

願いそのものよりも、
それをタラが軌道修正しながら、
具現化していくシャクティの動きそのものに、
凝縮された学びと知性が詰め込まれているのです。

これを人生で観ることが出来ないとしたら、
損をしていますから、
ジャンジャンタラにリクエストかけたら良いのですね。
剥き出しのエゴで結構です。
ブイブイ行きましょう。

なので、
もしもタラに「お願いしてはいけない事」の
答えがあるとしたら、
エゴ満載でお願いする事ではありません。

 

実は・・
しょうもない願いです(笑)

「しょうもない願い」って・・・
ありますよ。

「背中がかゆいので治してください・・」

とか、

 

「そんなものは、まごの手買って、
自分でかけよ!」

ですし、

ヴィトンのバックくださいとか、

「そんなものは、次のボーナスで自分で買えよ!」

です。

これらは、工夫したらすぐに、
自分で出来る事をお願いしてるのです。
何一つ、自分を変える必要がなく
手に入るものをお願いする事です。

これがタラにしてはいけないお願いになります。

自分で現実不可能に思える大きなお願いの場合は、
それを手に入れるときに、
自分の小さな信念体系やら、
価値観が崩壊していくのを観ることになります。
ここの学びがタラの面白さなのです。

 

しようもないお願いをタラにしている人を観ると、
不思議に思います。どうしてそんな
しょうもないお願いを・・よりによって、
タラにしてしまうのか?(笑)

これを考えてみました。

 

おそらく「エゴは悪」という呪縛があるからです。
エゴは悪という呪縛を崩壊させていくのがタラなのに!
もっとタラの知性を信頼して、
変化して動いていく自分自身を信頼して、
大胆にお願いしていくことが大切ですね。

 

では次回もタラの具現化や知性について、
多くの人がお願いする 
お金の具現化について、書いてみたいと思います。

瞑想みのり

 

お盆なので不思議な話

前回のブログを掲載した後に、読者さん?の
「死を笑ってはいけない・・」こんな声。

目覚めた聴覚に、ちゃんと届いております。
しかも・・ハートの真ん中に届いてる。
愛ですね。心得た!

さてさて・・
今日も お盆なので不思議な話。
生きてる人が、死の捉え方を変える。
これについてですね。

死が悲しいものとは限らないというのは、
瞑想してから知った事です。
これ、本当に個人差があるので、
死んだ人が、どう捉えているかに合わせて、
寄り添う必要があります。

少なくとも、母の死は、母自身が、
死を喜んでいたのがわかりますから、
私自身もあまり悲しんでいません。

 

他にも、瞑想の受講生さんで、癌のステージが進んでから、
瞑想を受けにきた人がいました。

瞑想は心の平安が得れるのと、
肉体を離れる時に、沢山の解放を手伝ってくれますから、
死について、新しい認識が育ちます。
それで、瞑想を受けに来られたのですね。

帰りぎわに「死んだら、挨拶に来ます!」
と言われたのですが、
だいぶ時間が過ぎたある日、私の部屋の中にその人がいました。

 

「これは幽霊か?」とか「どこから部屋に入ったのか?」
とか、思う間もなく、とっさに、見えた瞬間、
笑顔で手をふりました。向こうも手をふった私に気づいてました。

死んだ人に足がないと言われるのは、わかる気がします。
本当のリアルな肉体ではなくて、映画の映像を空間に見る感じなのです。

生前は、病気で肉体の激痛で苦しかった訳です。
信じていた民間療法にも見放され無視されます。

だから、この人にとって、
死は大仕事であり、頑張ったことを
誰かに無視されたくなかったのだと思いますよ。
この気持ちに寄り添う時、私に出来ることは、
無視しないで笑顔で手を振る事だったのです。

本人が、死んだ事を祝福と捉えているのに、
生きてる人が、必要以上に悲しんでいる。
これも相手に寄り添ってないのです。

生きてる間に相手に対してベストを尽くして
接していたら、それが、わかりますよ。
(だから生きてる間は、心残りのないように・・なのです)

 

こんな違ったケースもありました。
私の友達で、幼い子供(赤ちゃんと3歳児)
と夫を残して、病気で亡くなった人がいます。

初7日とか、49日とかも、すべては、
全部が、こちらの世界の都合であり、
そもそも、日付や時間感覚が大きく違うのが「死」です。

この場合は、
まさか、49日なんかで、天国に行ってませんよ!
生前、頑張り屋で、何事も諦めずに
粘り強い性格の人でしたが、
天国に行ってたまるかと必死で粘ってとどまり続け、
ある時、もう亡くなってから100日以上はとっくに
過ぎていたと思いますが、
宇宙に大きな風が吹いたというか、流れがあった時に、
天国にあがりました「あ〜今。天国に行った〜」と
彼女の死を感じたのはその時です。

 

どうして、天国にすぐ上がらなかったのか?
痛い程に気持ちがわかります。だから、
この場合は「天国に行ってたまるか!まだまだ粘る」
この思いに寄り添ってあげる。

この人の場合は静寂に溶けた時が、
本当の死であり、お別れだったと思ってます。

個人的には、上記のような
特別な場合以外は、
人間が成仏しないでこの世に残る
(地縛霊やら、霊がとりつく、霊が場所に棲みつく)
これは、実は、ほぼないと思ってます。

 

だから、誰かに「霊が取り憑いてるよ」とか、
おどされたら、瞑想者は

「誰にモノ言うとるねん!人を見てモノ言いや!」と、
相手の無知を諭すくらいでないといけません。(笑)

見えないという理由で、騙されてはいけませんし、
瞑想者は叡智とともに在りましょう!
ぶっ高いダサイ壺を買ってもいけません(笑)

肉体がないというのは、想像以上に軽くて、
天国行きの風に飛ばされてしまう感じです。
相当この世に残りたい理由と根性がないと、
残れないのが、正しいのです。

ただ例外があるとしたら、
死んだ事を本人が知らない場合。
特に仕事中の突然死とかは、
死んだ本人がまだ知らずに責任感から働いてる
フィーリングと一緒にある可能性があるので、

「死んでる事を教えてあげる」
「もう仕事しなくていいんだと伝えてあげる」
(ボランティアや家事などの無報酬の仕事の場合も忘れずに!)
「天国で安らかに眠ってください」

これだけは、周囲の人が、
お葬式の時に伝えてあげましょう。
それで十分です。

 

まぁ今日は不思議な話をつらつらと・・
書いてみました。

コロナがまた流行っていますから、
皆さんお身体に気をつけて、
夏をお過ごしください。

瞑想みのり

えっ?死神に昇格したの?

今日はお盆も近いし、不思議な話です。

この3月4月は身近な人が亡くなる事が多かったので、
今日は瞑想と死について書いてみたいと思います。

「死んだらどうなるのか?」というのは、
私も良くわかっていません。
私の経験上、死んだ人は、あまり喋らないからです(笑)

死んだ直後は、意外と話せます。
これは、瞑想の受講生さんからも
体験として聴きますね。
直後でも、時間が経過してしまうとタイムラグがあり、
言葉がとんでもなく遅れて届くのでコミュニケーションが成立しません。

言葉というより、
何かのフィーリングを受け取る事の方が大きく、
そのフィーリングに言葉をのせるとしたら、
この言葉が当てはまるという感じで受け取ります。

あと夢も多く
(この場合は雑夢ではなく、タターガタの夢)
表情などで伝えたい事を伝えてきますね。
瞑想者の親族、身内は、死んだ人の満面の笑顔や、
ごきげんな姿を夢でよく見ています。
これに親族が助けられるのです。

そして、亡くなってから時間が経過すると、
本当に静寂の意識に消えていきます。

この3月〜4月ごろか?なんだか・・
亡くなった母の意識を感じました。

私にとっては、これはヤバい事です。

死んだ母の意識を私が強く意識する事があるとしたら?
それは父を(天国へ)連れていく時だからです。
実際にその頃、父は身体が弱って痩せていました。

母が亡くなったのは10年以上も前の事ですけど、
まず、亡くなったことに驚いたのは、
家族でも医者でもなく、母自身だったのです!
(それ位、自分がまさか死ぬとは思ってなかったのです)
だから死んだ直後は

「え〜〜!うっそ〜!私が・・死んじゃったの〜〜?」と、
とにかく本人がビックリしており、

「まぁ。本当に死んじゃったなら仕方ない・・
(死んだ事を)楽しく生きよう!」
そんな感覚が母の中にありました。

死は、家族としては、やはり悲しいのですけど、
本人の伝えたい事が理解できるだけに、
当時は、コントのようで、笑ってしまったのです。

死んでるのに「楽しく生きる」とか、
突っ込みどころ満載でしたが・・
実際に、死んで本人は満足してますよ。
死を謳歌できているのです。

これは、生きてる人が、死の捉え方を変えないといけません。
相手の気持ちに寄り添うのです。
また次回、書いてみたいと思います。

また生きてる間の本人の宗教観。
それもあるのかもしれませんね。
母は敬虔なクリスチャンでしたし
瞑想者でもありましたから。

この世に未練がないけれど、ただ・・死に際して、
家事ができない父の事だけが気がかりだったみたいです。

それが、分かったのは、
私が父を引き取ることが決まった時です。

「良かった〜〜!ありがとう〜!嬉しい〜!」
という母のフィーリングを強く感じたからです。
私としては、父の事で、こんなに死んだ母が喜ぶとは、
思ってもみませんでした。

そして、この出来事から、
勝手に母が私に約束をしている事があるのです。

 

生前は、会社を経営しており、キャリアウーマンの先駆けで、
世界中を、飛行機で飛び回って仕事してるような母でした。

もしも、父が寝たきりや、認知症になった場合に、
私や兄弟が介護で、仕事ができなくなるような事態が起きれば、
母が父を天国に連れていく事を決めてるようです。

「そんな権限が、死んでる人間にあるのか?」 
「いつから死神になっとるねん?」と・・
突っ込みどころはあるのですけど、

まんざら、この話は嘘ではないというか、
母の性格上あり得るな・・と、私は、思っています。

だから、兄弟にも「うちは親の介護はないし、
あるとしたら、死が迫ってる時だから、
心の準備を急いでしないといけない時だよ」

と伝えてあります。

そして父にも、
ママは天国で死神に昇格してるから(笑)
寝たきりとボケたらすぐ連れていかれるから、
とにかく、その2点に注意して、元気で暮らそうね」
と伝えています。

だから、足腰も強いし、フィットネスクラブにも通ってます。
毎日のように図書館に出かけて、読書と勉強をしてますね。
私としては親が元気でいてくれるのはありがたいことですね。

今回は、母の意識を感じたので、
さすがに父はヤバいのかと思い、
ちょうど瞑想でグリーン・タラをしていたので、
心臓と循環器に良いので教えました。

昔は父も母と一緒に瞑想をしており
「空」の素晴らしい体験を理解しております。

親の死は誰でも、
ゆくゆくは覚悟をしておかないといけませんが、

今回は母の意識も感じなくなったので、
連れていかれるのは、見送られたようで、私も安心しました。

後々に、
出来るだけ心残りのないようにと思っているので、
この夏は、元気なうちに
青森のねぶた祭りに連れて行こうと思っています。
和食の美味しいミシュランのお店も予約を入れました。

魂からすると「何かをやりのした事がある」
この思いだけが最悪な事なので、
何でも生きている間に、経験しておく方がいいのです。

それは自分の事も含めですが、
親に対してもですね。
世界の・日本の素晴らしい文化や芸術を見せておく事も含めて、
「やり残した事がないように」これだけが重要な事です。

瞑想みのり

あいで布を染めるように

こんにちは瞑想みのりです。
昨日の痛ましいニュース(総理大臣の訃報)は、
私の住まいから駅2つのところで起きました。
ご冥福をお祈りします。
この後、お線香と水をあげに行ってきます。

私が死者に対して気にしてることは1つです。
死んだ事を本人が知ってるか知らないか、ここですね。

仕事中に、背後から撃たれてますから、
「もう仕事をしなくていいんだ」と、
そして「安らかに眠ってください」
これを周囲の人が伝えてあげることが大事ですね。

またこの話も追々。
では、今日は瞑想初心者の人に向けて書いてみました。

ここ数年、
藍染の布巾を使っています。

買って良かった物ベスト5に入ってますね。

何が良いかって、殺菌効果があると思います!
(それが実感できますもの)

夏場、布巾が濡れたままでも臭くならないのです。
そして、すごい速さで乾きます。不思議だわ!

藍染のお話は、
瞑想の「空」の経験にも例えられます。

「空」の経験は、
最初は瞑想中に起こります。
認識できない「からっぽ」ですが、
エネルギーに満ちており、
創造のすべての力がここに詰まっています。

「空」は私たちの本質であり、
性質としては、平安や至福感、静寂で、
誰もが生きている間には経験したいと
思うような心地よい体験です。

 

けれども、
瞑想中に得た「空」のこれらの性質も、
瞑想から戻ると、日常のストレスにまみれて、
かき消されてしまうのです。

 

おおざっぱに悟りをわかりやすく
説明するとしたら、
この瞑想中の「空」の経験が、
どんなにストレスにまみれようとも、
働こうとも、走ろうとも、世界で何が起きようとも、
瞑想中だけでなく、日常の中でも消えないで残り続ける事。

これが「悟り」と、
定義する事ができるでしょう。
皆さんは、ここを目指してくださいね。

世の中のストレスから逃げて
瞑想だけして生活すれば
空の平安が消えずに悟れるのか?といえば、
これが大間違いなのです!
それは、ただ単に
「瞑想を人生から逃げるために使っている状態」
なのですね。

筋肉を鍛える時と同じで、
ストレス(負荷)をかける、
そしてリラックス。
この繰り返しで質の高い筋肉が育ちます。
負荷だけでも、リラックスだけでもダメなように、

空が日常に定着するためには、
なんと日常のストレス(負荷)に、
さらされる事が必要なのです。
瞑想してない時の活動が
空の日常的な定着(悟り)に欠かせません。

藍染と同じなのです。
最初、布を染料にさらしても、
布はすぐには染まりません。

染めるためには、
水で何度もさらして、そして日光にあてます。
すると、せっかく染まったはずの染料は、
落ちてしまうのですが、
この落ちてしまう工程が必要不可欠なのです。

せっかく染めたはずの染料が、
水や日光にさらすことで、
落ちてしまう。それでも少しだけ、
布に残る染料があるのですね。

それは、
言い方を変えると、どんなに水や
日光にさらしても残る強い染料です。

藍染にはそれが布に定着していく必要があるのです。

 

瞑想の空も同じです。
瞑想をして平安を得る。
そして、日常に戻り、ストレス(負荷)にさらされる。
すると、空の平安は吹っ飛んでしまうのですが、
これを何度も繰り返していると、ストレスにさらされても、
残る空が微量ながらあり、
それがどんどん日常の中に定着していくのですね。

 

染料が、どんなに水でさらしても、日光にさらしても、
青色に染まって取れない時、藍染が完成する訳ですが、

 

瞑想の悟りも同じです。
どんなに、世界で何が起ころうが、
日常でストレスにまみれようが、
いつも平安がある。至福がある。静寂がある。
この状態になる時が悟りです。

簡単に言うと、瞑想からは出てくるけれども、
「空」からは出てこなくなる。この状態が悟りなのです。

これは、もしも瞑想を辞めてしまったとしても、
空がいつも日常に溢れている状態なのです。

 

ここも藍染と同じです。
青く染まるまでは、簡単に落ちていた染料が、
一度染まると、今度はどんなに
「元の白い布に戻してください」
と言われても もう戻らないでしょ。

これは、悟りの知覚の変化そのものです。

一度、空によって、
認識力が拡がり知覚の変化が訪れると、
「元に戻して!」と言われても・・
もう元に戻りませんから。

瞑想というのは日々することは、地味な作業ですが、
確実に、空の平安を日常にもたらします。
私たちの心や身体、精神状態、
そして知覚に変化をもたらし変えていきます。

瞑想みのり